言わずと知れた高野山の墓域。最奥には弘法大師(空海)の御廟があり、そこに至るまでの参道沿いに総数20万基超とも言われる多数の墓塔・石碑が建立されています。金剛峯寺境内の一角として国指定史跡になっているほか、世界遺産にも登録されています。

以下、「史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書 1 高野町文化財調査報告書」(以下「調査報告書」)を参考に、なるべく入り口から道なりにご紹介します (※私自身では墓銘を確認していない墓碑も一部あります)。調査報告書には被葬者までは網羅されていなかったので、家名はわかっても被葬者不明というものもあります。また、調査報告書に載っていなくても墓銘から被葬者が大名家関連であると特定できた墓碑もいくつか取り上げています。逆に調査報告書に載っていても取り上げていない墓碑も多々あります。諸々ご留意ください。
まずは一の橋から参道に入り、左側の道に入ってすぐ左手に柳河(柳川)藩主立花家の墓所。隣接した3つの墓域があり、標柱の立つ大きい五輪塔は初代藩主立花宗茂のもの(写真中央やや右)。同玉垣内には宗茂継々室葉室氏と、2代忠茂男茂辰の墓塔もあります。
宗茂墓域向かって左横の一角も立花家墓域で、5代貞俶、6代貞則、7代鑑通世子鑑門と鑑一、8代鑑寿と同夫人立花氏、あと多分貞俶夫人立花氏や同側室柴田氏(貞則・鑑通生母)、鑑通夫人黒田氏、鑑一夫人立花氏(鑑賢生母)らの墓があります。
それから宗茂墓域の裏手にも墓域があります。10基ほどありますが、そのうち鑑門継室小出氏、9代鑑賢、11代鑑備のものは墓銘が読めました。調査報告書によれば2代忠茂、3代鑑虎、7代鑑通の墓碑もあるらしい。

立花家墓所の隣に、仙台藩主伊達家の墓所が隣り合って2か所。写真左の鳥居向こうが2代藩主伊達忠宗の墓域、右の鳥居向こうが3代藩主伊達綱宗の墓域。※写真一番左の五輪塔は先述の立花宗茂のものです。

次が山形藩主最上家親の墓碑。伊達綱宗墓域の裏手、宇和島伊達家の墓域と挟まれるような位置にあります。

続いて宇和島藩主伊達家の墓域。初代秀宗、2代宗利、3代宗贇、4代村年、あと秀宗夫人井伊氏と秀宗嫡男宗時の墓塔が建ちます。

加賀藩主前田家。2代利常、3代光高と夫人徳川氏の墓碑が3基並び、右手前の別区画に4代綱紀夫人保科氏の供養塔があります。

前田家の墓域向かって右横の比較的小さめの墓塔が並ぶエリアの奥に「筑前黒田家墓所」と標柱のある墓域があります。「筑前」を素直に読んだら福岡藩ですが、それと断定できそうな墓碑は見つけられず。むしろ直方藩関連と思しき戒名が見えたので、混ざっているかもです。

しばらく参道を進んで左の石垣上に、薩摩藩主島津家の墓域があります。玉垣内には3代綱貴~7代重年までの5名の藩主墓と、8代重豪の側室市田氏(12代将軍徳川家斉御台所広大院の生母)および市田氏所生の重豪女敬(中津藩主奥平昌男縁女)の合祀墓があります。他、おそらく玉垣外の墓碑群も一族や家臣のもの。

ちょっと進んでこれも左に、岡山藩主池田家の墓所が見えます。2代綱政(写真右端)、3代継政(写真中央)、4代宗政(写真左端)、あと綱政夫人丹羽氏と綱政側室水原氏(継政生母)ほか2基。藩主墓を含む墓域ですが、比較的こぢんまりしています。

そのお隣に津山藩主(のち赤穂藩主家)森家の墓所。写真奥が津山藩初代藩主森忠政の墓域、手前が忠政嫡男忠広と2代長継嫡男忠継の墓域です。

しばらく道なりに進み、左手に久留米藩主有馬家の墓域があります。玉垣内の五輪塔は、奥の横並びになっている3つが向かって右から3代頼利、2代忠頼、6代則維のもの。横並びになっていない左手前の五輪塔は7代頼徸の墓碑です。玉垣内にはほかにも子女ら一族の墓碑が立ち並び、また玉垣の外にも則維側室らの墓が並びます。

有馬家墓所の裏が長州(萩)藩主毛利家の墓域。藩祖輝元ならびに4代吉広~11代斉元までの藩主と、5代吉元世子宗元(=長府藩4代藩主毛利元朝)、7代重就世子重広、たぶん重就子女2名と、あと小さい墓碑がいくつかあります。藩主墓のほとんどは夫人合祀の模様。

有馬家墓所と隣接した奥が秋田(久保田)藩主佐竹家の墓域。玉垣内に初代義宣、2代義隆と夫人佐竹氏、3代義処と夫人松江松平氏、義処嫡男義苗の6名の墓碑が並び、さらに玉垣の奥には家祖義重の霊屋が建っています。


佐竹家墓域を出て、参道入り口で分岐していた道と合流する地点にあるのが戦国大名河野通直の墓所です。2基の五輪塔のうち、向かって左が通直墓碑で、右が生母宍戸氏の墓碑と思われます。

そこから分岐の道を少し参道入り口側へ進む(戻る)と、左側に岩槻藩主大岡家の供養塔があります。

元の分岐合流地点に戻り、すぐ目の前(参道本筋からすると左手)にあるのが黒羽藩主大関家の墓所。

大関家墓所の右横の上り坂(参道本筋からすると左の脇道)を少し上った先にある五輪塔が、岸和田藩主岡部宣勝の墓碑。周辺の墓碑も岡部家のもののようです。
ちなみにさらに奥に行くと旗本久貝家の五輪塔があります。

もとの参道へ戻り、少し進んで右手にちょっと開けたところが大田原藩主大田原家の墓所です。

そこからしばらく直進すると、右側の石垣上に3基の宝塔が並んでいますが、調査報告書によればこれが中津藩主奥平家の江戸初期の当主・宇都宮藩主奥平忠昌と山形藩主奥平昌能父子の墓所だそう。

奥平家墓所から少し先の右側にある大きい五輪塔は、「高松松平家墓所」の標柱がありますが誤りで、正しくは松江藩主京極忠高夫人初姫(2代将軍徳川秀忠四女)の墓塔です。

また、初姫墓所の少し先を右折した正面に、「丸亀京極家墓所」の標柱がある六角宝塔(の中の卵塔)がありますが、これは小浜藩主京極高次(先述の京極忠高の父)夫人お初が妹お江の菩提を弔うために建立したものだそうで、つまり2代将軍徳川秀忠御台所崇源院の供養塔ということになります。

崇源院供養塔の右手突き当りの横並びの墓碑群は土浦藩主土屋家のもの。写真左から4代篤直、5代寿直(地輪と基台部のみ)、7代英直、9代彦直、3代陳直(地輪と基台部のみ)、6代泰直の墓碑です。
また崇源院供養塔を挟んで逆側の五輪塔の並びも土浦藩主土屋家の墓で、そちらには初代数直、2代政直、政直世子昭直と定直、8代寛直らの墓碑があります。
さらに崇源院供養塔向かって左後ろのほうにあるのは調査報告書によれば久留里藩主系の土屋家の墓碑だそう。

もとの参道に戻ってすぐ左に、「小田原北条氏御墓所」という案内表示がある脇道があります。この脇道に入るとすぐに左斜め上方向に登る道があり、そこに大聖寺藩初代藩主前田利治の五輪塔があります。
このあたりで多分ヤマカガシを見かけましたので足元注意。

前田利治墓所を降りて奥へ向かう途中の左手に小さな石廟がありますが、これが淀藩主石川義孝の霊廟です。中には小さい五輪塔があります。

最奥の一角が小田原北条氏の墓所。

もとの参道に戻って少し進んだ右側に、鳥居をそなえた玉垣付きの2基の五輪塔があります。高鍋藩主秋月家の墓所で、玉垣内向かって左の五輪塔が3代種信、右の五輪塔が種信夫人松浦氏、写真左手奥の玉垣外の五輪塔が2代種春の墓碑です。
ちなみに秋月家墓所向かって右横にも大きい五輪塔がある墓域がありますが、調査報告書によるとこれは紀州藩家臣戸田家の墓所だそう。

そのまま進んで左手やや上のほうに、松本藩主(のち沼津藩主家)水野家の墓所が隣り合って2か所あります。向かって右側、参道からよく見えるほうの墓域には初代忠清と夫人杉田氏(前田利家養女)、2代忠職と夫人中川氏、5代忠幹の墓碑があり、向かって左側の墓域に3代忠直と夫人鍋島氏、4代忠周の墓碑が並んでいます。

上記水野家墓域の玉垣外向かって右にも五輪塔が4基並んでいますが、これが沼津就封後の水野家の墓所です。左奥が2代忠成と4代忠武の合祀墓、ほとんど写っていませんが右奥が初代忠友と3代忠義の合祀墓、左手前は女性墓、右手前は5代忠良の墓碑。
さらにこの右斜め下には安中藩主水野元知の五輪塔もあります。
ちなみに写真右後方にちらっと見えている五輪塔の並びは明知城主旗本遠山家の墓碑です。

水野家の墓域の奥のほうには丸岡藩主有馬家関連の墓碑が一列、さらにその上段後方には諏訪(高島)藩主諏訪家の墓域があります。
調査報告書によれば諏訪家墓所は頼水から忠恕までの歴代藩主を含むようです。

水野家や諏訪家の墓所を左に眺めた位置から参道右斜め前方向には、紀州藩初代藩主徳川頼宣の墓碑が石扉つきの玉垣に囲われてあります。

頼宣墓所の隣に奥平家の墓所がありますが、ここは加納藩主奥平家、忍藩主奥平松平家、中津藩主奥平家の墓碑が混在しています。
まず参道に面して大きい五輪塔が2基ありますが、これは改易された加納藩主家ゆかりで、向かって左(写真ほぼ中央)が徳川家康長女で加納藩初代藩主奥平信昌夫人亀姫の墓碑、右が加納藩3代藩主奥平忠隆の墓碑です。
ここから奥の墓域へ入る際に左に並ぶ一列(写真左手前の五輪塔の並び)は忍藩主系で、手前から忍藩2代藩主松平忠彦夫人池田氏、桑名藩6代藩主松平忠翼男鳥之助、白河藩主松平忠弘嫡男清照、清照側室安西氏(桑名藩初代藩主松平忠雅生母)の墓碑と思われます。
奥の一帯はほぼ中津藩主奥平家の墓域ですが、加納藩主系の墓碑のちょうど真裏にあたる箇所の2基だけは忍藩主系で、桑名藩6代藩主松平忠翼と夫人松平氏の墓碑です。
中津藩主系は宇都宮藩主奥平昌章、中津藩初代昌成~7代昌猷までの歴代、あと墓銘が読めたものでは昌章夫人奥平氏、2代昌敦夫人牧野氏、5代昌高夫人奥平氏の墓碑があります。

奥平家墓所と参道挟んで反対側(参道本筋からすると左手)に「肥前国城主鍋島家墓所入口」という案内表示があり、奥の方へ道が延びています。
ここをしばらく直進して右の土手の上のほうに鳥居のある墓域がありますが、これが松本藩主戸田松平家の墓所。松本藩主松平康長、明石藩主松平康直、加納藩初代藩主松平光重、同2代光永、同3代光煕ら藩主や一族の墓碑があります。ほか、墓銘が読めたものでは康長世子忠光、康長女(館林藩主松平乗寿室※離縁)、光永次男光規、多分ですが松本藩再封初代光慈と同2代光雄の墓碑も確認できました。
なお戸田松平家墓域の向かって左横の一角は調査報告書によると小諸藩主系の牧野家の墓所とのこと。

上記戸田松平家・牧野家の墓所の土手の下のほうに鳥居のある大きい五輪塔がありますが、これは小倉藩初代藩主小笠原忠眞夫人本多氏の墓碑です。
また調査報告書によればこの五輪塔よりも参道寄りにある小ぶりな五輪塔群も小倉小笠原家関連だそう。

そこから奥へ行くと佐賀藩主鍋島家の墓所があります。写真右の玉垣内が家祖鍋島直茂と継室陽泰院の墓碑、写真左の玉垣内が3代綱茂夫人越前松平氏の墓碑。

鍋島家墓所からさらに奥へ行った突き当り上のほうには館林藩主秋元家および亀山藩主(のち改易)菅沼家の墓所があります。
写真に写っているのはほぼ秋元家の墓碑で、川越藩初代藩主秋元喬知、同2代喬房、山形藩2代永朝、同3代久朝の藩主墓と、谷村藩主秋元富朝女(佐倉藩主戸田忠昌室、喬知の実母)など一族の墓碑があります。
菅沼家墓所は秋元家の墓域の奥の方にこぢんまりとあり、初代定芳(地輪のみ)と2代定昭の五輪塔が並んでいます。

もとの参道に戻って、中津奥平家墓所から少し先に進んだところで右に入って奥の左手下側のほうにあるのが八戸藩主南部家の墓碑。3代通信から7代信房までの5名の藩主墓です。

もとの参道に戻って今度は左手、突き当りに大きい五輪塔が見える脇道がありますが、脇道の途中から突き当り一帯が盛岡藩主南部家関連の墓域になります。
まず脇道に入って中ほど左手に4基の長方形の墓碑がありますが、これが7代利視~10代利敬の4名の藩主墓。
その次に同じく脇道左手側に3代重信~6代利幹の4名の藩主を含む一族墓碑があります。藩主墓以外に目立つ五輪塔が2基ありますが、これはおそらく初代利直男利康と同政直のものです。
突き当りの崩れた玉垣内には、右から初代利直、同夫人蒲生氏、2代重直、3代重信夫人玉山氏、4代行信夫人毛利氏の五輪塔が並びます。その前列にもいくつか墓碑があるんですが、行信夫人墓碑の前列にあるのが行信嫡男実信の墓碑、重直と重信夫人の墓碑前列あたりのは重信男舜信の墓碑ではないかと思います。
さらに玉垣裏手の奥の方に11代吉次郎利用と善太郎利用、12代利済の3名の藩主墓が並びます。ちなみに周辺にあるのは族臣南部家の墓碑のようです。

もとの参道に戻ってすぐ左の目の前が松前藩主松前家の墓域。

参道右斜め前には戦国武将の武田信玄・勝頼の墓所があります。案内看板つき。

武田信玄・勝頼墓域内の左後方に郡山藩主柳沢家の墓碑が建っています。郡山藩2代藩主柳沢信鴻(写真手前)と側室村井氏の墓碑です。この墓所の位置は柳沢家が武田家の遺臣だから…?

武田信玄・勝頼墓所の隣が紀州藩7代藩主徳川宗将の墓所。

その隣に、厩橋藩主(のち姫路藩主家)酒井家の墓域があります。厩橋藩2代藩主酒井忠世、3代忠行と夫人久松松平氏、4代忠清継室姉小路氏、8代親本夫人秋田氏の五輪塔が並んでいます。

酒井家墓所から参道挟んで左斜め前の一角が、忍藩主奥平松平家の墓域。鳥居つきの大きい五輪塔が姫路藩主松平忠明のもので、その隣に並んでいるのは忠明継室小出氏の墓碑です。
ほか、忠明墓碑向かって左横に集まっている五輪塔の中に、白河藩主松平忠弘、桑名藩2代藩主松平忠刻、同3代忠啓、同4代忠功夫人松平氏(3代忠啓女)の墓碑があります。

そのちょっと先の右手には、再び紀州徳川家の墓域。ここは2代光貞、3代綱教、4代頼職、6代宗直の4名の墓所です。

紀州徳川家の墓所と参道挟んで反対側、奥のほうに延びるやや広めの脇道は上杉謙信霊屋への参道です。
この脇道に入ってすぐ右手に、長岡藩主牧野家の大きい五輪塔が2基。初代忠成(写真手前)と2代忠成(写真奥)の五輪塔です。

そこからちょっと進んだところに鳥居のある五輪塔がありますが、これは今治藩主久松松平家の関連で、おそらく初代定房嫡男定経の墓碑だろうと思います。

突き当りが上杉謙信霊屋。ちなみに写真を撮っている立ち位置の右側に五輪塔が一列並びますが (写真には写っていません)、調査報告書によれば備中松山藩主(のち改易)水谷家の墓碑だそう。

謙信霊屋の左右それぞれに米沢藩主上杉家の墓碑があります。
まず右のエリア、初代景勝の墓碑が玉垣付きで1基独立してあり、4代綱憲~7代宗房の藩主墓4基が横並びになっています。

左のエリアには2代定勝、3代綱勝、綱勝夫人保科氏の墓碑があります。

上杉家の墓域の端の方に、豊臣家の墓碑が看板つきで建っています。2基並ぶ五輪塔が淀殿と秀頼の墓碑です。だいぶ新しめなので近年再建された?模様。
ちなみに写真右の家のような形の石祠?は、直江兼続夫人お船の方の墓碑だそう。なので上杉家の関連ですね。

豊臣家墓の横を抜けて上に行ったところが、彦根藩主井伊家の墓域。2代直孝および9代直定の2藩主のほか、13代直中側室君田氏(15代直弼生母)ら一族の墓碑もあります。墓域の広さの割には墓碑が少なめ。

もとの参道に戻ってすぐ左、斜め上方向に入る細い脇道がありますが、入ってすぐ右の石垣上にある一角は調査報告書によれば福江藩主五島家の墓所。

脇道をしばらく登って左側の、鳥居のある大きい五輪塔が福山藩主水野勝貞の墓碑。
※ちなみに先述の上杉景勝ら米沢藩主家の墓域からもつながっています。そちらからの方が行きやすいです。

もとの参道に戻ってすぐ目の前(参道本筋からすると右側)には岩国藩主吉川家の墓所があります。

参道挟んで逆側には平戸藩主松浦家の墓域。写真中央の五輪塔が5代棟のもの。ほか4代重信、棟世子長、8代誠信、9代清は墓銘が読めました。
調査報告書によれば初代鎮信、3代隆信、6代篤信、7代有信の墓碑もあるようです。

先に進んで左手、館林藩主(のち高田藩主家)榊原家の墓所。写真中央が初代榊原康政の墓碑です。
墓域内には康政側室花房氏、3代忠次継室寺沢氏、忠次男小平太、姫路藩2代政房継室池尻氏、あと多分高田藩2代政敦側室三宅氏など、一族墓碑が並びます。

また参道右のやや奥のほうには徳島藩主蜂須賀家の墓所があります。写真に写る五輪塔は初代藩主蜂須賀至鎮の墓碑です。玉垣内には他に小さい宝篋印塔と五輪塔がありますが、調査報告書によればいずれも家祖正勝のものらしい。

再び参道左側、細い脇道がありますがそこに入ってすぐ左手には丸岡藩主系の有馬家の墓所があります。大きい五輪塔2基は延岡藩2代藩主有馬康純と丸岡藩初代藩主有馬清純のもの。

有馬家墓所と脇道挟んで右隣の宝篋印塔中心の墓所は、調査報告書によれば府内藩主系の大給松平家の墓所です。

大給松平家墓所の参道挟んでほぼ対面にあるのが新宮藩主水野家の墓所で、一番大きい五輪塔はおそらく初代重央の墓碑と思われます。

水野家墓所に隣接して浜田藩主(のち川越藩主家)松井松平家の墓所があります。墓銘はまったく読めませんでしたが、調査報告書によれば岸和田藩主松平康重、浜田藩初代藩主松平康映、同3代康員らの墓碑があるらしい。

松井松平家墓所の奥一帯は仙台藩主伊達家の墓域です。初代伊達政宗の大きい五輪塔が目立ちますが、さらに奥のほうに行くと4代吉村~12代斉邦の藩主墓がそれぞれ玉垣付きで個別に建っています。

もとの参道に戻ってすぐ左側に「鳥取池田家墓所」と標柱の立つ墓所がありますが、調査報告書によればこれは戦国大名池田恒興の供養塔だそうです。
なお鳥取池田家の墓所裏手(写真奥)の墓碑群は、調査報告書によると柳本藩主織田家のものとのこと。

そこから参道を少し進むと左側に、中之橋霊園に向かうことを示す木の案内札のある整備された脇道が現れます。この脇道に入ってずっとまっすぐ進むと、右のほうに「小田原大久保家墓所」と標柱のある大きい五輪塔があります。
墓銘がかなり読みづらくなっていますが、読めた部分から察するに、騎西藩主大久保忠常夫人奥平氏のものではないかと思います。

そこからさらに直進した右斜め上の方に、田辺(舞鶴)藩主牧野家の墓所があります。関宿藩主牧野信成および田辺藩初代親成~7代以成までの歴代が2名ずつ合祀されている墓碑が4基と、信成の父康成と祖父定成の合祀塔で計5基。

元来た道を戻る途中、大久保家墓所のあたりで右手に枝分かれしたルートがあります。そちらに進んで板木を並べた泥濘のあるあたりの墓碑群は与板藩主井伊家の墓所。掛川藩主井伊直好の墓碑は遠くからでも墓銘が読めます。調査報告書によれば彦根藩主系の井伊家墓碑も含む模様。

与板藩主井伊家の墓所の脇にある石段を上ると、途中左手に弘前藩主津軽家の墓所があります。一段上がったところにあるのが藩主墓で、墓碑向かって右から初代為信、2代信枚、3代信義、7代信寧、8代信明、9代寧親、10代信順と並び、10代信順と向かい合う位置に11代順承の墓碑があります。
一段下がったところの墓碑はだいたい初期の一族墓のようですが、家老大道寺家のものも混ざっています。一番藩主墓に近い位置にあるのがおそらく為信夫人大浦氏のもの。

石段を上りきったところが大垣藩主戸田家の墓所です。大きい五輪塔は左から順に初代氏鉄~8代氏庸と10代氏彬の9名の藩主墓です。
氏鉄墓の左横にも一族墓が並びますが、3代氏西夫人内藤氏と2代氏信の子女3名(氏晴、氏親、早世した長女)くらいしか被葬者特定できず。

石段を下りて与板藩主井伊家の墓所とは逆側にあるのが、彦根藩主井伊家の墓所ならびに霊屋です。(一部与板藩主系の墓碑もあります)
霊屋向かって右側に、3代直澄~8代直惟の5名の藩主墓 (※4代直興が再襲して7代となっているので代数では6代分ですが5名分)。
霊屋の左手前に15代直弼墓、霊屋左横に掛川藩主井伊直武墓、あと直武墓の手前にあるのがおそらく直武夫人藤堂氏(安藤重之養女)の墓。
霊屋向かって左側は墓碑の数が多く、霊屋横から順に、安中藩主井伊直好生母、12代直幸世子直富、同夫人伊達氏、12代直幸、同夫人井伊氏、14代直亮、同夫人高松松平氏、13代直中、同夫人南部氏、10代直禔、同夫人酒井氏、14代直亮世子直元(13代直中男)、同夫人井伊氏、13代直中庶長子直清(多分)の墓碑がずらりと並びます。
※ちなみに霊屋は調査報告書では初代直政のものとなっています。

大久保家墓所の方へ戻ってメインの参道へ戻る途中の右奥(井伊家霊屋の下段あたり)に、村松藩主堀直時の墓碑があります。

メインの参道へ戻ってちょっと進むと左に「備後福山藩主阿部家之墓所入口」という案内表示のある脇道がありますが、これは多分誤りで、脇道を進んだ先にあるのは福山藩主水野勝種の墓碑です。

そこからもとの参道に戻って左手に松江城主堀尾吉晴墓碑があり、そのちょっと先にぽつんと五輪塔が建っています。辿り着き方がわかりませんでしたが、参道側から「施主越中守定永建之」と墓銘の読めるこれが、白河藩主松平定信の墓碑と思われます。

松平定信墓碑とは参道の反対側、やや奥まったところに土佐藩主山内家の墓所。大きい五輪塔が初代藩主山内一豊のものです。
その後ろに3基五輪塔が並びますが、中央が土佐中村藩主山内忠直の墓碑で、左が忠直女千代(津和野藩世子亀井政直室)の墓碑、右が土佐藩2代藩主山内忠義夫人久松松平氏の墓碑と思われます。

そのほぼお隣に薩摩藩主島津家の墓所。ここには初代家久、2代光久、光久嫡男綱久の3名の墓碑があります。

そこからちょっと進んだところの左側に高鍋藩主秋月家の墓所があります。
4代種政と夫人松浦氏の墓碑は参道側を向いた大きい五輪塔で、5代種弘と夫人中川氏の墓碑はそこからやや上のほうに一の橋側を向いて建っています。(写真は種弘夫妻の墓碑)

秋月家墓所の参道挟んで反対側にあるのが石田三成の墓所。

石田三成墓所の裏手あたりに越前松岡藩主松平昌勝の墓碑があります。福井藩主松平忠昌の庶長子で、福井藩4代綱昌、6代吉邦、7代宗昌の実父に当たる方。

松平昌勝墓向かって左横の一列は、松本藩主戸田松平家の4代光和~7代光年および8代光庸世子光領の墓碑と思われます。あと4代光和墓の手前に宝暦9年の墓銘を持つ倒れた墓石があって、これが3代光徳の墓碑だったら順当なんですが…。

明智光秀の墓碑は参道から見ると右にちょっと奥まったところにあります。先述の戸田松平家の墓碑の位置からだと、いくつか墓碑を挟みますがほぼ正面。

明智光秀墓碑から参道を背にさらに奥を目指すと、紀州徳川家の門付の墓所が見えます。ここは10代治宝、14代茂承、明治~大正期の侯爵頼倫の墓所です。

もとの参道戻ってすぐ左に中津藩主奥平家の大きい墓域があります。多数の五輪塔がひしめいていますがほぼ墓銘読めず。
唯一ある宝篋印塔が宇都宮藩主奥平家昌のもので、写真左手前の大きい五輪塔3基は奥から家昌女(松江藩主堀尾忠晴室)、宇都宮藩主奥平忠昌夫人鳥居氏、忠昌女(棚倉藩主内藤信良室)のものだろうと思います。

奥平家墓所向かって左の細い脇道を上ると、右手に上山藩主系の藤井松平家の墓所があります。明石藩主松平忠国、古河藩主松平信之は墓銘が読めました。

さらに上に行くと、崩れた玉垣と大きな五輪塔が並ぶ一角がありますが、これは調査報告書によると新発田藩主溝口家の墓所だそう。2代宣勝、3代宣直、4代重雄ら初期の藩主墓があるようですが墓銘読めず。
玉垣外(写真右)の墓碑の並びはいくつか墓銘が読めましたが、支藩沢海藩主家の関連のようです。初代善勝、同夫人前田氏、2代政勝の墓碑があります。

もとの参道に戻ってちょっと進むと左に高遠藩主内藤家の墓所があります。

高遠内藤家の真横に高崎藩主(のち磐城平藩主家)安藤家の墓所。

安藤家墓所の隣が村上藩主内藤家の墓所。
ちなみに村上内藤家の墓域の横に古い五輪塔が2基並んでいますが、これは戦国大名松平家忠(深溝松平4代)の四男忠重とその夫人の墓碑です。

そこから参道右側の奥に入ると、相馬中村藩主相馬家の大きい墓域があります。調査報告書によれば初代利胤~10代樹胤までの歴代藩主墓碑がある模様。

相馬家墓所を背にして右斜め前には丹南藩主高木家の墓所。

相馬家墓所を背にして左斜め前には膳所藩主本多家の墓所があります。写真中央が初代康俊、右が2代俊次、左が俊次夫人小田部氏(立花宗茂養女)の墓碑。

もとの参道戻って右に、飫肥藩主伊東家の墓所。調査報告書によれば初代祐兵~12代祐丕までの歴代藩主墓碑があるとのこと。

そこからちょっと進んで右の奥の方に紀州徳川家の墓域。8代重倫、9代治貞、11代斉順、12代斉彊の4藩主の墓所です。

参道戻って正面の脇道(参道本筋からすると左の脇道)を上って右に館林藩主松平乗寿の墓碑があります。隣の小五輪塔は乗寿継室石川氏のものだろうと思います。

その左斜め上には津藩主藤堂家の一族墓所。標柱はありますが墓銘読めず具体的な被葬者は不明。

もとの参道戻って少し進んで右手、二本松藩主丹羽家の墓所。中央が白河藩主丹羽長重、右が二本松藩初代藩主丹羽光重、左が同2代長次の墓碑です。

丹羽家墓所の参道挟んで対面が久留米藩主有馬家の墓所で、(写真ではほとんど鳥居しか見えていませんが)鳥居向こうにある大きい五輪塔は初代藩主有馬豊氏のもの。

その隣が姫路藩主本多忠政の墓碑です。

続いて庄内藩主酒井家の墓所。写真中央の大きい五輪塔は、向かって右が高田藩主酒井家次、左が左沢藩主酒井直次の墓碑です。ここは他にもたくさん墓碑がありますがほとんど墓銘読めず、出羽松山藩主酒井忠恒(庄内藩初代酒井忠勝三男)と庄内藩4代藩主酒井忠眞嫡男忠辰の墓碑があるくらいしかわかりませんでした。

桑名藩主本多忠勝の墓所。2基並ぶ宝篋印塔の大きい方(向かって右)が忠勝墓、小さい方が忠勝夫人お久の方の墓です。
岡崎藩主系の本多家墓所でもあり、参道寄りのところに郡山新田藩主本多政信と浜田藩2代藩主本多忠盈の墓碑などがあります。

本多忠勝墓所と参道挟んで向かいに吉富製薬会社有縁物故者慰霊塔に至る側道がありますが、慰霊塔からさらに奥へ進むと新庄藩3代藩主戸澤正庸の墓碑があります。

もとの参道戻って進むと右に忍藩主奥平松平家の墓所が見えます。大きい五輪塔は家祖にあたる加納藩主奥平信昌のもの。
あとは墓碑が密集しすぎて半分以上墓銘が読めませんでしたが、読めたものでは
・信昌五輪塔の向かって右側に忍藩2代忠彦と、多分忍藩初代忠堯夫人韶子女王の墓碑
・信昌五輪塔の向かって左側に桑名藩初代忠雅嫡男忠張、桑名藩4代忠功の墓碑
がありました。調査報告書によれば桑名藩2代忠刻、桑名藩5代忠和、忍藩初代忠堯の墓碑もここにあるようです。

少し進んで中の橋の手前で右の墓地奥へ進むと紀州徳川家夫人方墓所という案内のある墓碑があります。

そこよりちょっと参道寄り、かつ中の橋寄りに位置するのが三春藩主秋田家の墓所。

もとの参道戻って中の橋の手前右脇に、下へ降りる脇道があります。これを降りて右側の墓碑群の中、先述の秋田家墓所のちょうど裏手あたりに2基の五輪塔があります。
調査報告書によれば右が高取藩主本多俊政の墓碑、左が福知山藩主稲葉家ゆかりの墓碑となっています。

もとの参道戻ってほぼ正面にある掛川藩主北条家の墓所向かって左に奥へ進む脇道があるのでそこへ入って、すぐ右にあるのが佐貫藩主能見松平家の墓所。墓銘が読めませんでしたが、調査報告書によれば佐貫藩主松平勝隆の墓碑があるようです。

そこから突き当り、ちょっと右に行ったところにあるのが旗本酒井家(写真奥2基)と紀州藩家老松平家(写真手前2基)の墓所。
4基並ぶうち、一番奥(向かって右端)は酒井忠重(庄内藩初代藩主酒井忠勝の弟)の墓碑です。その隣は忠重夫人の墓碑と思われます。
なお、酒井家と松平家の墓碑の間に「柴田修理勝家墓」という標柱が倒れています。ここに柴田勝家墓があったということでしょうか。

そこから道なりに奥へ進んだところに鳥羽藩主稲垣家の墓域があります。刈谷藩主稲垣重昭、烏山藩主稲垣重富、鳥羽藩初代藩主稲垣昭賢、同2代昭央あたりは墓銘が読めます。

もとの参道戻って中の橋を渡り、汗かき地蔵のお堂左脇の石段を下りてまっすぐ奥に行くと高鍋藩主秋月家の墓所が見えます。川向かいに先述の稲垣家墓所があるあたりです。
鳥居のある墓碑は2代種春夫人佐久間氏と、6代種美夫人黒田氏のもの。

また、汗かき地蔵のお堂すぐ裏手から右上に登るルートがありますが、これを上った先にあるのが高取藩主植村家と岡崎藩主(のち飯山藩主家)本多家の墓域。
植村家の墓域は藩主墓中心で、中央が初代藩主植村家政の墓碑、あとは左右に歴代の墓碑が並びます。

本多家の方は岡崎藩3代藩主本多忠利の墓がひときわ大きく、あとは被葬者特定できませんでした。

もとの参道戻って少し進んだ右手に岸和田藩主岡部家の墓所。ここには戦国武将岡部長盛、長盛継室松平氏、岸和田藩2代藩主岡部行隆の墓碑があります。

そのまま覚鑁坂を上る途中、左に「吉川家墓所入口」「松下興産株式会社並に関連会社墓所」といった案内碑のあるところで右に入ると、大木の陰に勝山藩主小笠原家の墓碑があります。
写真左の空輪と風輪の落ちた五輪塔が関宿藩主小笠原政信の墓碑。写真右の地輪のみの五輪塔は勝山藩初代藩主小笠原貞信夫人(政信女)の墓碑です。あと倒れている墓碑の中に貞信次女のものらしき諡号も見えました。

続いて、上智禅尼の墓碑を通りすぎたところにある左の石段を上って右に行くと、佐伯藩主毛利家の墓域に出ます。写真右手前の五輪塔が4代高重の墓碑。あとは5代高久の墓碑が墓銘がかなりはっきり読めます。調査報告書によれば他にも藩主墓があるようです。
また写真を撮っている位置から見て右奥の一角は旗本大久保教勝家の墓所になっており、さらにここの一段下のエリアには旗本堀田一継の墓碑もありました。

佐伯毛利家墓所に至った道をさらに奥(上)方向へ行くと、古河藩3代藩主土井利重の墓碑にたどり着きます。

もとの参道戻って密厳堂を超えたあたりで右の石垣上に見えるのが大洲藩主加藤家の墓域。

さらに進むと右に壬生藩主鳥居家の墓所。左から高遠藩主鳥居忠春墓、山形藩2代藩主鳥居忠恒墓、戦国武将鳥居元忠墓、山形藩初代藩主鳥居忠政墓と、あと多分忠政女(真田信重夫人)の墓。
ちなみに手前にある越後村上佛海上人墓あたりで参道挟んで向かいの墓域の右奥のほうに、東根城主里見(東根)景佐の墓碑があります。

鳥居家墓所の斜め向かい、参道左の墓域に並ぶ五輪塔は改易された皆川藩主能見松平家の墓碑です。右から皆川藩初代藩主松平重則墓、重則夫人屋代氏墓、同2代重正夫人大河内松平氏墓、あと女性墓で計4基。

能見松平家の墓碑の右横に、上に向かう脇道がありますが、上っていく途中左手に大きい無縫塔があります。これが小田原藩主稲葉正勝の墓碑。隣の五輪塔は殉死家臣(塚田木工助)のもの。

そこからさらに上ると、真岡藩主稲葉正成の五輪塔があります。
※なお先述の土井利重墓碑のあるところからそのまま奥へ突っ切るとここに繋がります。

もとの参道戻ってすぐ右に、出石藩主小出家の墓所。2代吉政夫妻の墓碑です。

その左斜め向かい、「高麗陣敵味方戦死者供養塔」という案内板の奥に玉垣に囲われた一角がありますが、これが薩摩藩主島津家の墓域。
調査報告書によれば家祖島津義弘の墓碑があるらしいですが、墓銘読めず特定できませんでした。なお墓域内中央に並ぶ3基のうち、右の宝篋印塔2基が8代重豪と10代斉興の墓碑です。

薩摩島津家墓所の隣には佐土原藩4代藩主島津忠高の墓碑があります。

岡藩主中川家の墓所。初代秀成、4代久恒、7代久慶、9代久持の4藩主の墓碑が並びます。

中川家墓所裏手の2基の五輪塔は出石藩小出家関連。墓銘は読めるような読めないような状態でしたが、おそらく3代吉英夫妻の墓碑だろうと思います。

小出家墓碑の隣が松代藩主真田家の墓域。一番左端の大きい五輪塔が初代真田信之末男信重の墓碑。

真田家墓所からさらに上の方に山形藩主最上義光の墓碑が見えます。

もとの参道戻ってちょっと行った左、「親王院先師墓所」という案内碑のある石段を上がった先に開けた墓域がありますが、そこの左端の並びの中に加賀前田家祖・前田利家ならびに夫人のまつの墓碑が残っています。かなり古いもののようですが、墓銘は読めます。写真左が利家、右がまつの墓碑。

参道右斜め向かいに岡藩主中川家の墓所。写真左手前が5代久通墓、右手前が6代久忠墓、奥の2基は2代久盛夫妻の墓碑です。

その横に徳川家康三女で広島藩初代藩主浅野長晟夫人振姫の大きい五輪塔があります。二番石の通称のとおり、奥之院の墓碑のなかで2番目に大きいもの。

ちょっと進んだ右手には、長府藩主毛利家の墓所。大きい3基の五輪塔は初代秀元、3代綱元、5代元矩の墓碑です。
あとは向かって左後ろ(写真奥一番左端)の五輪塔も長府毛利家のもので、秀元女松菊(徳山藩主毛利就隆室※離縁)と彼女が生んだ娘・千福(つまり毛利就隆女)が合祀されています。
あと写真では見えませんがその右隣の五輪塔も秀元女千菊(旗本山崎豊治妻)の墓碑だろうと思います。

もとの参道戻って左側に閑院家墓所という標柱のある墓碑群がありますが、その右隣にあるのが古河藩主土井家の墓域。左から古河藩再封4代利位墓、同3代利厚墓、唐津藩主利益夫妻合祀墓、小五輪塔2基(被葬者不明)、古河藩初封2代利隆墓と並んでいます。

もとの参道戻って少し進んだところで左の奥に淀藩主石川憲之の五輪塔があります。向かって右横には江戸焼死者追悼碑。

そこから右斜め上(奥)の方へ行くと、新庄藩主戸澤家の墓所に出ます。中央右の大きい五輪塔が初代戸澤政盛の墓碑。中央左のやや小ぶりな五輪塔が2代正誠墓です。左右の墓碑は墓銘がかなり読みづらいですが、向かって右側列が政盛世子定盛と政盛女於宮(養子定盛室、手前側)の墓碑、左側列は政盛孫女於風(定盛と於宮の娘)と政盛側室門屋氏(於宮生母、政盛継室とも。手前側)の墓碑だろうと思います。あと政盛墓向かって右隣にある小五輪塔はたぶん政盛生母の墓碑っぽい。

もとの参道戻ってしばらく進み、英霊殿に至る分岐手前の右側に福山藩主水野勝成と、勝成側室藤井氏(2代勝俊生母)の墓碑が並んでいます。

英霊殿に至る分岐の反対側に整備された参道が延びています。崇源院墓所に至る参道です。
この参道に入ってすぐ左に大きめの五輪塔がありますが、これが姫路藩主本多政勝の墓碑。

そのまま進むと右に椎谷藩主堀家の墓所が見えます。写真中央やや右の卵塔2基が、家祖堀直之と直之娘婿にあたる壬生藩主三浦正次の墓碑です。

さらに進んで左には庄内藩主酒井忠勝側室西田氏(2代忠当生母)の墓碑。

参道突き当り正面が、2代将軍徳川秀忠御台所崇源院の墓所です。一番石と呼ばれる、奥之院の墓碑で一番大きい五輪塔。

崇源院墓所の左に、複数の大名家関連の墓碑が集う墓域があります。
写真左奥の2基は、姫路藩主本多政勝の生母と夫人有馬氏の墓碑。
その横の鳥居のある墓碑は越前北ノ庄藩主松平忠直の墓碑。
手前の鳥居の向こうに見える五輪塔は忠直夫人で2代将軍秀忠三女の勝姫の墓碑です。
写っていませんが、勝姫墓碑の隣には3代将軍家光三男綱重の墓碑があり、さらに隣に2代将軍秀忠長女千姫の供養塔もあります。
写真右手前は高田藩主松平光長世子綱賢の墓碑です。


(千姫および徳川綱重墓碑。右手前が千姫墓)
そこから崇源院墓所に戻る途中右斜め下方向にある五輪塔は、姫路藩主本多政勝の長男で、郡山新田藩主本多勝行の墓碑。

崇源院墓所向かって右奥の墓域へ進むと古い五輪塔が集まる一角が見えますが、写真右端が岩槻藩主阿部正次世子政澄の墓碑です。

上記の写真を撮っている立ち位置から左のほうに、上に登る道があります。道といってもただの細い山道で、正規ルートではないかもしれませんが、とにかく登ると3代将軍徳川家光御台所本理院の墓域に出ます。

その隣には高田藩主松平光長夫人毛利氏の墓碑があります。

その隣は桑名藩主久松松平家の墓域。桑名藩主松平定綱(向かって右)と、同側室浅井氏(2代定良生母)の墓碑が並びます。

さらに隣に福井藩3代藩主松平昌親ゆかりの女性の墓碑が3基。左から昌親生母浦上氏(福井藩初代藩主松平忠昌側室)、昌親夫人森氏、昌親同母妹布里(大輪藩主土井利直室)の墓碑です。

もとの参道戻ってしばらく進み、お化粧地蔵のところから右に入ると大津籠城戦死者追弔碑との案内がある並びがありますが、その中に戦国武将京極高吉や浅井長政の墓碑があります。
写真左から2番目の宝篋印塔が京極高吉の墓碑、隣の小さめの宝篋印塔が小浜藩主京極高次の墓碑、その隣の半壊している墓碑がおそらく丸亀藩7代藩主京極朗徹の父・京極高周の墓碑、奥の大きい五輪塔は多分ですが柳河(柳川)藩主田中忠政の墓碑。
あと写っていませんが写真右奥の木の陰に浅井長政の墓碑があります。
ちなみに突き当り正面の一列は熊本藩家臣南条家ゆかりの墓碑のようで、熊本藩主細川忠利の四男元知の墓碑が含まれています。


(浅井長政墓碑)
もとの参道戻って少し進むと右に伊予松山藩主久松松平家の墓域があります。中央の五輪塔は2代定頼のもの。

久松松平家の墓域向かって右横の脇道へ入ると、左に3基の五輪塔が並んでいますが、これは岡崎藩主(のち飯山藩主家)本多家の墓碑。中央が岡崎藩2代藩主本多康紀のものです。

その隣は断絶した村上藩主堀家の墓域。※写真左端に見える五輪塔は先述の本多家のもの。

そこから奥一帯が、福岡藩主黒田家の墓域です。
2代忠之継室坪坂氏、3代光之夫人小笠原氏は鳥居を備えた大きい五輪塔が建立されており、その奥の5代宣政夫人南部氏の墓碑も玉垣付きです。
あとは南部氏墓碑向かって右に、直方藩主黒田長清継室小笠原氏、3代光之女富貴(秋月藩主黒田長重室)、6代継高女厚、6代継高世子重政夫人島津氏、7代治之夫人榊原氏、10代斉清夫人二条氏、10代斉清女純(11代斉溥室)と並びます。

黒田家墓所はもう一箇所、先述の女性陣の墓碑群正面にあります。おそらく玉垣で囲われていたと思われる区画で、こちらは藩主墓を含みます。
写真左から8代藩主黒田治高墓、7代治之男隼三郎墓(※地輪と基台部のみ)、6代継高世子重政墓、直方藩主黒田長清墓、重政女屋世墓。

黒田家墓域の手前側に、前橋藩主松平家ゆかりの墓碑が2基並びます。手前の五輪塔が白河藩主(松平大和守家2代)松平直矩夫人松江松平氏、奥の墓碑は直矩養女東園氏(豊岡藩主京極高住室)の墓碑です。

前橋松平家墓碑横の層塔があるあたりは調査報告書によれば福島藩主板倉家の墓域。関宿藩主板倉重宗や深溝藩主板倉重昌の墓碑があるそう。

前橋松平家墓碑の正面にある3基の五輪塔は改易された鳥羽藩主内藤家の歴代墓碑。右から2代忠政、初代忠重、3代忠勝の墓碑です。

内藤家墓碑の正面および隣にあるのが庄内藩主酒井家の墓碑。
まず正面、庄内藩2代藩主酒井忠当の墓碑です。周囲の小さい五輪塔は殉死家臣のものとのこと。

内藤家墓碑の横(忠当墓碑向かって右斜め後ろ)にあるのが、庄内藩3代藩主酒井忠義の墓碑。

その斜め前にあるのが磐城平藩主(のち延岡藩主家)内藤家の墓域。初代政長は墓銘が読めました。

延岡内藤家墓所の左隣(先述の酒井忠当墓碑の正面でもあり村上堀家墓所の向かいでもある)が、福井藩主越前松平家の墓所です。写真手前から初代忠昌、忠昌夫人広橋氏、2代光通、光通夫人越前松平氏の墓塔。

もとの参道戻って少し進んだ左の奥に、八戸藩主南部家の墓所があります。大きい五輪塔は中央が初代直房のもので、その右横が直房生母中里氏、左横が2代直政、斜め前(写真一番手前)にあるのが8代信眞の墓碑。

南部家墓所に隣り合う位置に、福岡藩主黒田家の墓所があります。写真右から4代綱政夫人立花氏、綱政世子吉之、綱政女久(米沢藩主上杉吉憲縁女)と、綱政関係者3名の墓域です。

もとの参道に戻ると、加賀藩主前田家の大きい墓所が参道挟んで向かい合っています。まず右手、加賀藩初代藩主前田利長の墓碑。

左手が利長夫人織田氏の墓所です。
なお利長夫人墓域向かって右奥方向の塋域に関宿藩主久世家の宝篋印塔が建っています。

そこから少し進んで、参道右側ちょっと入ったところに、加納藩主奥平忠政の五輪塔が建っています。

また少し進んで参道右手の奥に臼杵藩主稲葉家の墓所。調査報告書によれば家祖良通から14代観通までの歴代藩主墓碑を含む墓所だそう。

続いて、後述の広島浅野家墓所向かって右奥に小さめの五輪塔が並ぶ一角がありますが、調査報告書によればこれは津藩主藤堂家の一族墓所だそう。
※この写真は参道から見た正面ではなく、回り込んで横から撮っています。

参道右手、玉垣で大きく囲われているのが広島藩主浅野家墓所。大きい五輪塔が3基あり、中央が戦国武将浅野長政、向かって右が和歌山藩主浅野幸長、左が広島藩主浅野長晟の墓碑です。

浅野家墓所から少し行った先の参道左側にあるのが、越前北ノ庄藩主結城秀康および秀康生母永見氏の霊廟。参道からは数段石段を上る小上がり的な墓域になっていますが、登壇禁止です。

霊廟向かって右隣、木の陰に隠れるようにある五輪塔は姫路藩主本多忠政夫人松平氏(松平信康女熊姫)の墓碑です。

また、調査報告書によれば秀康霊廟裏手に、亀山藩主石川家祖・戦国武将石川康通と、岩村藩主大給松平家祖・戦国武将松平家乗の墓碑があるとのこと。
行き方が正しいかわかりませんが、先述の藤堂家墓所のあたりで参道左側へ延びる脇道に入り、右側の墓碑群が途切れたあたりで右に渡って秀康霊廟のほうへ進むと見えてきます。
写真左奥が石川康通墓、右手前が大給松平家乗墓と思われます。

上記写真を撮っているあたりで左後ろ上方向に目線を転じると五輪塔がいくつか見えます。
向かって一番右端、ちょっとだけ離れているところにあるのが秀康側室中川氏(北ノ庄藩2代藩主松平忠直および福井藩初代藩主松平忠昌の生母)の墓碑です。

その左横、五輪塔が3基並んでいるあたりが福山藩主阿部家の墓域。
写真右手前から福山藩初代藩主阿部正邦墓、岩槻藩2代藩主阿部重次継室久松松平氏墓、あと重次女(飯山藩主櫻井松平忠倶室)墓です。

もとの参道戻って、秀康霊廟の手前あたりから木を避けて右へ入ると、正面に伏見宮家墓所という標柱があります。そこから右奥へ入ると尾張藩主徳川義直の生母、徳川家康側室お亀の方の墓碑があります。
ちなみに玉垣外向かって右にある五輪塔は、お亀の方と先夫との間の子である尾張藩家老・竹腰正信の墓碑です。

伏見宮家墓所の左隣には庄内藩初代藩主酒井忠勝の墓所。

さらに左隣に、松江藩初代藩主松平直政ならびに生母三谷氏の墓碑が並んでいます。向かって左が直政墓。

松江松平家墓所向かって左斜め後ろ(参道本筋に戻ったとすると右手奥)に、小浜藩主酒井家の墓所があります。小浜藩初代藩主酒井忠勝や同側室(継室とも)心光院、川越藩主酒井忠利らの墓碑があります。

メインの参道はここから分岐します。ちょうど分岐するところのすぐ左側にあるのが、島原藩主深溝松平家の墓所。一の橋寄りの参道側の五輪塔が2代忠雄墓、御廟寄りの参道側の五輪塔が初代忠房墓、墓域中央の墓碑が忠房父忠利墓。これらは墓銘が読めます。あと途切れ途切れでも墓銘が見えるのは2基、忠利墓の左横(忠雄墓奥)が多分忠利父家忠墓、忠利墓の右横が多分家忠夫人水野氏墓だろうと思います。

深溝松平家に隣接している2基の五輪塔は姫路藩主系の酒井雅楽頭家関連で、厩橋藩初代藩主酒井重忠(向かって左)と同夫人山田氏の墓碑と思われます。

メインの参道分岐を右に入ってちょっと行った右側に、福岡藩3代藩主黒田光之の墓所があります。あと玉垣外の右隣には11代長溥の墓碑も。

その先、ちょっとわかりにくいですが参道右の木の陰にあるのが調査報告書によれば岡田藩主伊東家の墓所だそう。

そのまま参道を進むと右に赤穂藩主浅野長矩(浅野内匠頭)の墓碑があります。

浅野家墓所向かって右隣に石垣で囲われた菩薩像のある墓所がありますが、その裏手に鹿奴藩主池田家関連と思しき墓碑があります。写真手前から3代仲庸、2代仲央、仲央女輝(今治藩世子久松松平定温室)の墓碑です。

深溝松平家墓所まで戻って分岐を左に入り、少し行くと左の石段上に豊臣家墓所があります。現地案内看板によれば秀吉、秀長、秀吉母大政所らの墓所とのこと。

そこからしばらく参道を道なりに進み、参道左側に写真のような墓碑が見えますが、後列左の五輪塔が調査報告書によれば宇都宮藩主本多正純の墓碑です。

そのはす向かい、参道右手に郡上藩主系の青山家の墓所。写真中央の大きい五輪塔が尼崎藩主青山幸成のもの。

そこから少し先にある「曾我部俊雄大僧正墓所」と案内碑のある左の石段を上った先、塋域右奥に分解されたような五輪塔が残っていますが、これは調査報告書によれば清須城主松平忠吉のものだそう。

もとの参道に戻って少し行くと、出羽最上里見家墓所という倒れかかった標柱のある五輪塔群がありますが、調査報告書によれば正しくは揖斐藩主(のち改易)西尾家の墓所らしい。

さらに参道進んで右には龍野藩主脇坂家の墓所があります。

その先、参道左手「織田信長公墓」の案内がある脇道へ入り、ちょっと上って左が織田信長および筒井順慶の墓域。
なお信長墓碑向かって右隣の囲いのある墓碑は岡山藩主池田光政女六のもので、筒井順慶墓碑手前(写真左下)の背丈の低い五輪塔は姫路藩主池田輝政のもの。

信長墓所向かって左の一角は調査報告書によれば天童藩主系の織田家関連の墓域だそう。

信長墓碑に繋がる参道をそのまま上ると、左に安房西尾家墓所と案内のある墓域があります。調査報告書によれば横須賀藩主系の西尾家墓所とのこと。
なお参道挟んで向かいにも、横須賀藩主系の西尾家墓碑があります。

脇道をそのまま道なりに上り、水汲み場を過ぎて左の墓域に入って正面奥へ進んで少し上ったところが形原松平家の墓所。
写真右の五輪塔が佐倉藩主松平家信の墓碑、奥に並ぶ3基が篠山藩初代藩主松平康信(中央)、同2代典信(向かって左)、同3代信利(向かって右)の墓碑です。

そこから左斜め下へ降りたところに篠山藩初代藩主松平康信夫人酒井氏の墓碑があります。

形原松平家の墓碑のあたりから、御廟を背に右奥へ登っていくと現代用の分譲墓地的なところに出ますが、そこから左下方向へ無理やり降りていくと佐賀藩9代藩主鍋島斉直墓と思しき墓碑にたどり着きます。
※この行き方は正しくないかもしれないです。位置的には豊臣家墓所の上段に当たるくらいの位置です。

少し戻って形原松平家墓所に至る墓域奥には古い墓碑が並ぶ一角がありますが、この並びの後列一番奥の五輪塔が宇都宮藩主戸田忠能の墓碑です。

そこからもとの脇道へ戻ってひたすら道なりに奥へ行くと、安房里見家墓所に突き当たります。向かって右が館山藩主里見忠義、左が忠義夫人大久保氏の墓碑です。

あとは御廟橋を渡ったエリア(※撮影禁止区域)に、会津藩主(のち水口藩主家)加藤家と徳川将軍家(春日局ら)の墓碑があります。いずれも参道右手のほう。
ちなみに一の橋から奥之院まで、現地パンフレットでは徒歩で約40分となっています。
写真やメモを取りながらだった私の場合は、チェックしたい墓碑の位置をおおよそ把握して行っても、一の橋から御廟橋にたどり着くまでに休憩なしで約6時間かかりました。
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